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仁義なき戦い』(じんぎなきたたかい)は、戦後の広島で実際に起こったヤクザの抗争を題材に飯干晃一が著したモデル小説。またこの小説をもとに東映で作られた映画。本文で特に記載なき場合は映画について述べている。各作品についてはリンク先を参照。

小説 編集

主人公である美能幸三が獄中で書き綴った手記がベース。小説では団体・人名・地名も全て実名(映画本編では実名をもじった名前に変えられる)記述された。1972年週刊サンケイ(現・SPA!)で連載。

手記 編集

飯干晃一の小説より先となる獄中手記を、美能幸三が執筆した原動力は1965年、月刊文藝春秋四月号に掲載された中国新聞報道部記者・今中瓦が執筆した「暴力と戦った中国新聞 ― 菊池寛賞に輝く新聞記者魂 "勝利の記録" 」という記事への反論からであった。この中に"美能が他の組幹部の意向を無視して山口組と勝手に盃を交わした" "破門された美能が山口組と打越会に助けを求めた" という記述があって、特に美能は "打越会に助けを求めた" という部分にプライドを傷つけられた。助けを求めたなどと書かれては、ヤクザとして生きていく以上、黙ってはいられない。ウソを書かれて悔しい、と翌日から舎房の机にかじり付いた美能は、こみ上げてくる怒りを抑えながら、マスコミにたいする怨念を込め、七年間にわたり総計700枚の手記を書き上げた。手記は汚名返上の執念が書かせたものであった。このため廻りまわって週刊サンケイ(現・SPA!)から連載が決定した時、"登場人物を全て実名で掲載する事" を連載の条件に付けた。実名を出せばトラブルになることは分かっていたが、あくまで名誉回復のためなので実名でなければ断る、と頑なであったという。なお前記、中国新聞の記事は、広島抗争時に中国新聞が「暴力追放キャンペーン」と銘打ち、ペンの力で暴力団に立ち向かった成果を『ある勇気の記録』(1965年、青春出版社、1994年、社会思想社)として出版。これは1965年の菊池寛賞を受賞、また同名タイトルでテレビドラマNET、1966年10月~1967年1月)にもなり、これを見てジャーナリストを志した者も多いといわれる名作だが、今日『仁義なき戦い』の原作・映画に比べると比較にならないほど知名度が低い[1]。また『仁義なき戦い』の映画化にあたり「ある勇気の記録」のテレビ化と同様に、暴力団追放のキャンペーンにもなると考えていた広島県警が当初、協力をしてくれたという話がある。

映画 編集

1973年東映配給網により正月映画第2弾として公開されたヤクザ映画。監督深作欣二。シリーズを通しての主演は菅原文太。製作東映京都。公開時の併映は『女番長 スケバン』。シネマスコープ。99分。第一作の制作前にシリーズ化が決定されていたが、予想以上の大ヒットとなり興収は邦画の中で年間第2位となり、21世紀の現在も名画座を満員にできるコンテンツである。長らくビデオ化されなかったが、その間も土曜日のオールナイトなどでシリーズ作がよく上映された。1987年12月にレンタルビデオがリリースされ、邦画としては桁外れの売上を達成し、以後もロングセラーを続けた。スポンサーの付き難いヤクザ映画にもかかわらず、繰り返しゴールデンタイムの地上波で放送されている。

この映画が登場するまでのヤクザ映画の多くはいわゆる、チョンマゲを取った時代劇と言われる虚構性の強い「仁侠映画」であり、義理人情に厚く正しい任侠道を歩むヒーローが描かれていた。68年から始まる文太主演の「現代やくざ」シリーズで既にヤクザを美化した従来の任侠映画の常識を覆す現実的なワルを主人公にしたが、この映画では実在のヤクザの抗争を「実録路線」として、リアリティを表現させたところが新しい。 本作に出てくるヤクザの大半は金にがめつく、弱者に強い社会悪としての姿が大いに描かれており、仁侠映画のようにヤクザを美化することはない。一時英雄的に表現されるキャラクターも最後には惨めに無残に殺される場面が多い。

また、この映画はヤクザを主人公にはしているが、優れた群集活劇でもあり、暗黒社会の一戦後史でもあり、青春映画であり、また自己啓発としての側面もある[2]。ただし、基本的に娯楽映画/エンターテイメントであるため、登場人物に感情移入させるためにもヤクザを魅力的な存在であるかのように描いており、犯罪者を美化するのかという批判もつきまとうことになる。

この映画の大ヒット後、ジャーナリズムは様々なヤクザ抗争を俎上に上げて料理し、それを原作とする多くの「実録ヤクザ映画」が製作されたが、30年以上経った今日でも、未だこの映画を凌駕するものは生まれていない。このため、その存在価値は年々増すばかりで、ヤクザ社会を知りたければ、まずこの映画を見、原作を読まなければ始まらない。ヤクザ社会を知ることができる数少ないガイドブックでもある[3]

深作オリジナル五部作 編集

深作新シリーズ 編集

  • 新仁義なき戦い(1974年)
  • 新仁義なき戦い 組長の首1975年
  • 新仁義なき戦い 組長最後の日1976年

他監督作品 編集

映画化までの経緯 編集

映画化の経緯には諸説あるが、有力説としては広島県呉市美能組の元組長美能幸三1970年網走刑務所を出所後に獄中で書いた手記を作家の飯干晃一が入手。入手経路は美能の知人に出版関係者がいて、いくつかの出版社を経て週刊サンケイ(現・SPA!)から飯干に渡った[4]などの説がある。翌年暮、東映京都の日下部五郎が飯干と別件の打ち合わせにより自宅を訪問時に手記の存在を知る。当時の日下部は俊藤浩滋プロデューサーの下にいたが、映画化に意欲を燃やす。

1972年、5月に週刊サンケイ(現・SPA!)に連載が開始されるが、ゲラ刷りの内容を岡田茂東映社長が入手していたとする説がある。この後、9月に東映はシナリオ作成を笠原和夫に指示。笠原の「ノート『仁義なき戦い』の三百日」によると「実在する登場人物や組関係者がどのように反応するか憶測もつかない」ため、笠原本人も映画化は実現不可能と二の足を踏んだが、岡田社長の強い指示で取材に着手。実際に美能に面会した結果、「呉での抗争事件だけならなんとかまとめられる」と引き受けた。当初の予定では佐々木哲彦(劇中では坂井鉄也)を主人公にし、この役を菅原文太にあてる予定だったが、シリーズ化を考えた東映によって急遽、美能を主人公モデルにさしかえた。第一作の撮影中に2作目「広島死闘篇」制作が決定し、東映は広島抗争の映画化を求めたが、笠原は「広島事件を描くと当然神戸の山口組が登場することになり、かなり慎重な配慮と手続きをしなければ」と苦悶。その結果、第一次広島抗争を実際の時代設定より後にずらし、山上光治を軸にしたストーリーを展開した。だが、結局、シリーズ大ヒットで、東映は笠原に「私がいやだいやだと逃げ回ってる広島事件をとうとうやれと言い出し」、本人も開き直った。後日、笠原が小林信彦に語ったところでは、代理戦争における合田一家(劇中では豊田会:笠原は合田一家の東進が広島戦争の原因としている)の評価も難しかったという[5]

監督の深作欣二は10月、別映画の編集中に俊藤浩滋から京都で製作するやくざ映画の監督をする気があるか打診されている。俊藤浩滋は東京撮影所で製作していた人斬り与太を評価。これにより深作欣二の起用を強引にすすめたとされる。深作自身は当時日本で最も評判の悪かったスタジオである京撮(京都撮影所)に対して幾らかの先入観があったとされるが現場に入ってからは「深作組」の名の下、縦横の活躍を見せる。

なお、俊藤浩滋と岡田茂の両巨頭は大川博前社長の後任人事をめぐって抗争があったとされている。そのためか、第2作以降に俊藤浩滋の名前はない。これをして岡田茂-高岩淡-日下部五郎ラインの勝利とする向きと、これとは別にやくざ映画に美学を求めた俊藤浩滋は実録路線を最後まで認められなかったのではとする意見に分かれており、今も結論は出ていない。

この映画がビデオ化されたのは、他のヤクザ映画より大幅に遅れ1987年末。これに関して深作は「映画が公開された頃は、描かれた人たちの多くが刑務所に入っていた。いわば鬼に居ぬ間に公開してしまったようなところがあった。ところが映画のビデオソフト化が始まった頃は、もうその人たちは社会復帰していた。そのため、ビデオ化の方が色々と問題が多かったわけです」と語っている[6]

2006年現在で、国内でDVD化されており、海外でもDVDが英語字幕つきで販売されている。

公開後の余波・逸話 編集

  • 物語においてモデルの団体・人名は仮名で登場する代わり、地名は実名でテロップや台詞で登場する。この映画のあまりの大ヒットの影響で、主要な設定場面である広島、神戸には「ヤクザ」のイメージが定着してしまった。当地では今もヤクザ映画に抵抗を覚える人は少なくないとされる。
    • なお、「広島死闘篇」以外の大半の撮影は京都市内で行われたが、第1作の作中では広島駅構内で無許可で撮影を強行したシーンが存在する。
  • この作品の登場人物のモデルは大半が実在の人物で、関係者が見れば誰が誰なのか一目瞭然のため、初公開時には映画を見た当事者達が大変なクレームを付けた。映画なのでより劇的にキャラを膨らませたり、話を面白く脚色するのは当然なのだが、それを理解できない人達からクレームがあった。「事実と違う」とか、「ワシはそがいなこまい男じゃない(私はそんなに肝の小さい男ではない)」とか、現役で子分など回りに格好がつかない人達もいたようである。中には「ワシが出とらん(私が出ていない)」というのもあったらしい。試写室に呼ばれた某親分の謎の一言が逸話として有名。現在は初公開時からは既に30年以上が経過し、モデルとなった人達の多くは他界している。
  • もう一本、笠原の脚本執筆にあたり多大な影響を与えたのは神代辰巳監督、1972年日活作品『一条さゆり 濡れた欲情』である。広島抗争の取材を重ねて材料は充分に整ったが、その料理法に行き詰まった。エネルギッシュで生々しく、残酷でいてなにか浮世ばなれしたズッコケたヤクザ・ワールドの人間葛藤図は、それまでの任侠映画のパターンに収まりきらず、といって他にパラダイム(典範)として模すべき映画は見当たらず。『ゴッドファーザー」や『バラキ』といったマフィア物も見たが参考にならなかった。『仁義なき戦い』は戦後日本の風土のなかで描いてこそ活きる素材だったからである。八方塞がりの時、たまたま入った映画館で観たのが『一条さゆり 濡れた欲情』で、一条さゆり白川和子伊佐山ひろ子の三女優の裸身が、文字通りず組んずほぐれつ、剥き出し性本能をぶつけ会う1時間余りの映像は、この上なく猥雑で、従順で、固唾を呑む暇もないほど迫力があった。これからの映画はこうでなければならないと信じ、この手法を持ってすれば『仁義なき戦い』の材料は捌けると強い自信をも抱いた[7]
  • 評論家とは逆に、安保闘争の敗北など、当時の無力感を吹き飛ばすエネルギーに満ち溢れた映画に観客は熱狂的に迎え入れた。またそれまでヤクザ映画に見向きもしなかった朝日新聞の映画評で絶賛され、朝日が誉めたことで影響は各紙誌に及び、映画の大ヒットに繋がったともいわれる[8]。19歳のとき、大阪の道頓堀東映でこの映画を見た井筒和幸は、オレたちの青春とシンクロしすぎて、熱いものがガーっときて、プー太郎だった自分がウワーとなって、もっていかれたという。それまでは洋画一辺倒で日本映画なんて馬鹿らしくて、この映画がなかったら日本映画なんて観に行かなかったろうと話している[9]。当時はビデオやDVDがなかったので、再上映を待って朝日ベストテンの1位(1~3部)受賞での再上映でまた観に行くと、今度はインテリ風の観客が多くて、こんな映画を見せていいのか心配になったという[10]
  • その後は高い評価で定着したが、近年も人気は持続し関連本・研究本が続々刊行される他、大友勝利など、メインキャラフィギュアなども発売されている。2003年5月3日にはNHKで特集が組まれ、ETVスペシャル"「仁義なき戦い」をつくった男たち" のタイトルで放送もされた。ヤクザ映画をNHKが特集するのは画期的な事と思われるが、これも前述されているように、この映画が単純にヤクザ映画の範疇に収まっていない証明でもある。
  • 映画が製作された1970年代の始めは広島抗争はまだ燻っていて、いささか危険な状況で、過去にもこの題材は東映をはじめ各社が映画化に取り掛かっては頓挫する、折り紙付きの難物であった。このため当初は広島ヤクザをあまり刺激しないよう当事者に取材はせず、チャッと撮って正月第二週あたりの添え物で、ノン・スター、1時間10分くらいの白黒映画でやる予定であった。それが普通サイズのカラー映画でいこうと変わり、東映内部でも後難を恐れ映画化に消極的な声はあったが、広島出身の岡田茂社長がやる気満々で実現に至った[11]
  • 『仁義なき戦い』の成功は、深作欣二のダイナミックな演出、絶頂期に向かう役者達の名演技、実録ならではリアリティなど、多くの複合要因から成り立ち、それら幸福な出会いともいえるが、やはり原作にはない膨大な資料を掻き集めてシナリオにまとめた笠原和夫の巧みな脚本、広島弁の珠玉の名セリフの数々によるところが大きい[12]。笠原は獄中手記を書いた美能幸三親分にも人を介して会いに行った、当時の美能は8年の刑期を終えシャバに出てきたばかりで、現役バリバリの殺気に笠原は縮み上がり「映画なんか信用できん」と美能の一言にその場を一目散に逃げ出した。ところが美能が追い駆けて来て色々話をしてるうち、戦中共に海軍の大竹海兵団にいた事が分かって美能は喜び自宅にまで招かれた。手記を書いただけに脚本家という仕事に興味を持ったようで「絶対に映画には使わない」という条件でたっぷり広島抗争の真実を聞く事が出来た。別れ際、美能に「絶対に映画にしないんだな」と念を押されたので「しません!」と答え帰京、さっそく脚本に取りかかったという[13][14]
  • 初めて聞かされる専門用語がふんだんに登場する等、暴力団の内情を垣間見せてくれた脚本は、笠原が綿密な取材を重ね膨大な資料を集めた成果である[15][16]。それは "血風ヤクザオペラ" [17]とも "広島弁シェークスピア" [18]とも称された。笠原は東京の出身で、終戦間際に海軍幹部候補生として3ヶ月の広島滞在歴はあるが、広島弁はあまり知らなかった。綿密な取材を重ね膨大な資料を集め、広島弁も研究し広島弁の辞書まで作っていたと噂された[19]が、広島弁独得の語感は文字の上からだけでは捉えられない。そこで思い当たったのが、自身の苦心作を脚本の本読み席上でクソミソにコキ下ろした岡田茂の語調だった。あの時、この時の岡田のニクたらしい言葉の数々と岡田の面貌を併せて思い起こしていると、菅原文太金子信雄のセリフが生き生きと回転し始めた。それは昔の仇を取ったような溜飲が下がる思いがしたという[20]
  • 1990年代初めにゴールデン洋画劇場でシリーズ5作が定期的に放送された事もある。テレビ初放映時は1週間おきに5部作まで放送し高視聴率を記録した。この映画はいわゆる放送禁止用語が何箇所かあり、そういったシーンはカットされた。このため例えば第1部の名シーンの一つである広能が海渡組本宅前で土居組長を暗殺するシーンでは、広能がこれから殺らないといけないプレッシャーで憂鬱にしていたところ「土居じゃが」とターゲットの土居組長が訪ねてきたとたん、獲物を狙う狼のような表情に豹変する展開があるが、その前の憂鬱だったシーンで「ないか?」「ポンか(ヒロポンのこと)」というセリフがあり、このためか、これらのシーンは全てカットされ土居組長の来訪シーンから始まってしまった。
  • 映画のテーマ曲は、シンプルなメロディで非常に高い演出効果を上げあまりにも有名だが、近年はテレビで「ヤクザ」や怖い人が出たり、武闘派タレントが激怒すると、このテーマソングがよく流れ定着している。また「仁義なき戦い」というタイトルも今や慣用句として定着、雑誌の見出しなどでよく使われる。2008年1月には『佐々木夫妻の仁義なき戦い』という稲垣吾郎主演のTBSドラマのタイトルにも使われた。そのほか第三部と第四部のそれぞれの副題“代理戦争”、“頂上作戦”も時折使われる語である。もともと“代理戦争”は国際社会の東西冷戦を、“頂上作戦”は警察による暴力団取締りを当時のマスコミがこう呼んだもので、三部と四部の映画の副題として採用した。いずれも当初の意味では死語となっているが、現在も時折使われるのは、この映画の副題として残っている理由もあると思われる。
  • 日下部五郎プロデューサーは最初、渡哲也の東映主演第1作として考えていた。渡に話を持って行ったが、渡は当時熱海で病気療養中で1年くらいかかると断られ、前からやりたがっていた菅原文太主演に決まった。このため渡の東映出演は『仁義の墓場』まで延期となった。他に役者の変更では山守義雄役は当初三国連太郎の予定だったが、岡田茂の一声金子信雄で決まった。しかし金子がクランクイン直前に倒れ出演が危ぶまれ、代役に西村晃が候補に挙がった。しかし話を耳にした金子が病床から這って出てきて出演を希望したため、西村の代役話は流れた。その他『代理戦争』で川谷拓三を世に出した西条勝治役は、最初荒木一郎が予定されていたが「広島ロケが恐い」という理由で降板したため、川谷拓三の大抜擢となったもの[22]
  • 第二部『広島死闘篇』で千葉真一が演じた大友勝利役は、シリーズ中1、2を争う名キャラクターとして人気が高い。近年も若い俳優がヤクザを演じる時、「仁義なき戦いの千葉真一さんがやった大友勝利のような」であるとか役作りの参考にもされる。千葉自身も忘れられない役柄として挙げている。この役は当初北大路欣也がやって、北大路のやった山中正治役を、千葉が演じることになっていた事でも知られるが、実際山中のセリフは全て覚えていたにも関わらず、深作から急に「大友やれ」と言われ役を交換したそうである。しかし当時の千葉はブロマイドの売上げが4年連続No.1であり、台本に「オメコの汁でメシ食うとるんで」のセリフもあり非常に悩んだ。撮影時の金玉を掻くシーンでは、深作から「やれ!」と強制されたが、調子に乗ってその後アドリブで、臭いを嗅いだら「やりすぎだ!」と言われた。映画の後半、山中に銃口を向けられるシーンでは、慌てふためき、紙で自分の顔を隠すように掲げる、という台本にないアドリブをやった。「相手に自分の顔が見えると撃たれてしまう」と人間のとった、とっさのバカげた行動が、よりリアリティを生んだ瞬間だった。こういうのは役者冥利に尽きる、と話している[23]
  • 子供の頃から歌手志望だった松方弘樹は、東映の人気俳優・波多伸二のロケ中の事故死による穴埋めで父・近衛十四郎に説得され17歳で俳優デビュー。1本だけの約束が東映の大量生産の煽りで次々と作品が決まり断れず、明けても暮れても撮影の日々。出演作は軒並みヒットしたが、演技に厳しい父は全ての作品をダメ出しし一度も褒めてくれず。やる気を失い、役者を辞めて遠洋のマグロ漁船に乗ろうなどと考えていたが、父に一喝され踏み止まったものの、このまま役者を続けていく自信もなかったが、30歳の時、この映画の第一部・坂井鉄也役に巡り合い変わったという。壮絶なシーンの連続に役者の醍醐味を味わい、演ずることの面白さが実感できた。演技力にも自信が生まれ、ようやく父に褒めてもらえると思った矢先、父は亡くなった[24]
  • 第三部『代理戦争』で第一部に続いて再登板となった梅宮辰夫が演じたのが明石組幹部・岩井信一。モデルとなった山口組幹部・山本健一眉毛のない顔に似せるため、当初眉毛をロウでつぶすメーキャップをしていた(実際の山本は眉毛がないのではなく薄かったという)が、よく汗をかいて溶けるので面倒くさくなってある日、志賀勝を真似て眉毛を剃った。京都の撮影所から東京に戻って娘・梅宮アンナを抱いたら、普段泣かない子だったのに「ギャーッ!!!」と泣いたという[25]
  • 第一部で梅宮辰夫扮する若杉寛の恋人役、第三部『代理戦争』で室田日出男扮する早川英男の妻を演じた中村英子は、色白で上品な美人女優で「第二の藤純子」と期待されたが、映画の公開まもない1974年、山口組三代目田岡一雄の息子で、プロデューサーの田岡満と結婚して芸能界を引退した。しかし1年後、子供を残し24歳の若さで自宅でガス自殺した。本人の気の弱さとしか考えられないが、ヤクザ映画の会社に入ったばかりに、という声もあって、中村の亡霊が撮影所に現われると一時噂が立った。「幽霊でもいいからカムバックしてもらいたいよ」と中村を育てたプロデューサーは嘆いていたという[26]
  • 五部作を通して金子信雄を扮する山守義雄親分の妻・利香を演じた木村俊恵は、俳優座の女優だが映画界では地味な存在であった。この作品で時に夫・山守との絶妙のコンビプレーで子分を翻弄、時に山守の尻を引っぱたくモーレツなおかみさんを怪演、映画ファンの間に広く知られるようになったが、やはり五部作の撮影終了間もない1974年5月、俳優座の公演中に過敏性腸カタルで倒れ、一旦回復したが同年7月26日、急性心臓死で39歳の若さで亡くなった。奇しくもこの日は、一年前から生活を共にしていた中谷一郎と晴れて結婚式を挙げる予定の日だったという[27][28]
  • 1993年高校野球甲子園春選抜大会大阪上宮高校が優勝。この時、決勝戦に向かうバスの中で監督が選手達に「仁義なき戦い」のビデオを見せた。選手達を鼓舞させるのに最適との判断で見せたのだが、ヤクザ映画を見せた、と大きな問題となった。監督は「いや~こちらではポピュラーな映画なのですが」と説明した。
  • 2006年2月の横浜ベイスターズのキャンプに三浦大輔投手が、この映画のDVDをキャンプに持ち込み若手選手に見せた(実際に見せたかは不明)。コメントは「登場人物がたくさん出てきて色々するでしょう(サバイバルゲームの参考になる、の意と思われる)」[29]
  • 雑誌でこの映画、いわゆる広島抗争をよく取り上げるのは「実話時代」と姉妹紙『実話時代BULL』である。現在は下記参考文献にある特集本がたくさん刊行されているが、「実話時代」などが創刊された1990年頃はこういった特集本がほとんど無かったため、『仁義なき戦い』の詳細情報、例えばモデルになった人物が誰か等は、この雑誌でしか得る事が出来なかった。ところでこのジャンルはネタがあまり無いためか、この映画の関連記事を載せると部数が伸びるのか、一時毎月のようにこの映画と関連の特集を掲載していたことがあり、現在もよく載っている。内容は大体同じではある。
  • 近年シネコンの増加で、各地で老舗映画館が閉館されるが、東映系の映画館の閉館イベントはこの映画が上映されることが多い。2007年4月大阪道頓堀東映ほか。

映画版(第一部) 編集

1973年1月13日封切

スタッフ 編集

キャスト 編集

山守組(モデル・山村組
土居組(モデル・土岡組
  • 土居清(モデル・土岡博)(演者・名和宏)…土居組組長。山守組に敗れる。
  • 若杉寛(モデル・大西政寛)(演者・梅宮辰夫)…土居組若衆頭。広能の兄貴分。
  • 江波亮一(演者・川谷拓三)…土居組若衆。
その他
  • 大久保憲一(モデル・海生逸一)(演者・内田朝雄)…呉の長老。山守組結成の媒酌人。
  • 金丸昭一(演者・高野真二)…呉市会議員。
  • 中原重人(演者・中村錦司)…呉市会議員。

※ナレーター…小池朝雄

ストーリー 編集

テンプレート:ネタバレ

舞台版 編集

映画のヒットを受けて、1974年10月24日~11月2日に、新宿紀伊國屋ホールで舞台版が上演された。

金子信雄から企画が出され、金子が当時主宰していた「劇団マールイ」の全面協力のもと、深作欣二と福田善之が共同演出として参加。キャストも金子が映画そのままに山守役を演じ、室田日出男、山城新伍、池玲子、成田三樹夫、曽根晴美ら映画版にも出演している役者達が多数出演している。

脚注・出典 編集

  1. 「実録『仁義なき戦い』・外伝・血の抗争の鎮魂歌 洋泉社 p65-70
  2. 実録「仁義なき戦い」・外伝・血の抗争の鎮魂歌、p64
  3. 実録「仁義なき戦い」・外伝・血の抗争の鎮魂歌、p64
  4. 「実録『仁義なき戦い』・外伝・血の抗争の鎮魂歌、p69-70
  5. キネマ旬報仁義なき戦いスクラップブック
  6. 「実録『仁義なき戦い』・外伝・血の抗争の鎮魂歌、p91
  7. 「破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲」笠原和夫、p10-11
  8. 「映画はやくざなり」笠原和夫、p10、新潮社、2003年
  9. 「サルに教える映画の話」井筒和幸、p78-84、272-274、バジリコ、2005年10月
  10. 朝日新聞、2008年5月8日、p15
  11. 「映画はやくざなり」笠原和夫、p57-66
  12. 「サルに教える映画の話」井筒和幸、p80、バジリコ、2005年10月
  13. 「映画はやくざなり」笠原和夫、p56-66
  14. 「「仁義なき戦い」調査・取材録集成」笠原和夫、p276、277、太田出版、2005年
  15. 「「仁義なき戦い」調査・取材録集成」(著者・笠原和夫)
  16. 週刊実話、2000年10月5日号、p198
  17. EX大衆、2005年10月号
  18. 出典調査中
  19. 出典調査中
  20. 「「仁義なき戦い」調査・取材録集成」笠原和夫、p276、277、太田出版、2005年
  21. 週刊プレイボーイ、2007年11月5日号
  22. 「仁義なき戦い 浪漫アルバム」杉作J太郎植地毅、p199、131、132、206、徳間書店
  23. アサヒ芸能、2007年8月2日号
  24. 週刊現代、2008年2月2日号、p184
  25. 「仁義なき戦い 浪漫アルバム」杉作J太郎、植地毅、p179
  26. 「破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲」笠原和夫、p233-235
  27. 実録 「仁義なき戦い」・外伝・血の抗争の鎮魂歌、p15
  28. 「日本映画俳優全集 女優編」(キネマ旬報社、1980年12月)
  29. 当時の東京スポーツの記事から

参考文献 編集

  • 「仁義なき戦い(死闘編)」(著者・飯干晃一)(角川文庫
  • 「仁義なき戦い(決戦編)」(著者・飯干晃一)(角川文庫)
  • 「仁義なき戦い 仁義なき戦い・広島死闘篇・代理戦争・頂上作戦」(著者・笠原和夫)(幻冬舎
  • 「仁義なき戦い 浪漫アルバム」(著者・杉作J太郎植地毅)(徳間書店、1998年5月)
  • 「実録『仁義なき戦い』・戦場の主役たち・これは映画ではない!」(洋泉社
  • 「実録『仁義なき戦い』・外伝・血の抗争の鎮魂歌(洋泉社、2003年4月)
  • 「ある勇気の記録-凶器の下の取材ノート」(中国新聞社報道部)(社会思想社
  • 「仁義なき映画列伝」(著者・大高宏雄)(鹿砦社、2002年2月)
  • 「極道ひとり旅」(著者・美能幸三)(サンケイ新聞社出版局)絶版
  • 「映画はやくざなり」(著者・笠原和夫)(新潮社、2003年6月)
  • 「仁義なき戦い」をつくった男たち―深作欣二と笠原和夫(著者・山根貞男米原尚志)(日本放送出版協会、2005年1月)
  • 「「仁義なき戦い」調査・取材録集成」(著者・笠原和夫)(太田出版、2005年7月)
  • 「仁義なき戦いバトル・ロワイヤル」(著者・深作欣二、高野育郎)(アスペクト、2000円12月)
  • 週刊実話、2000年10月5日号、p196-199
  • アサヒ芸能、2008年1月24日号、p213-218
  • 「破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲」(著者・笠原和夫)(ちくま文庫、2004年2月) ※「鎧を着ている男たち」(徳間書店、1987年6月を加筆、改題し幻冬舎から1997年に出版、さらに再出版したもの)
  • 「日本映画俳優全集 女優編」(キネマ旬報社、1980年12月)

外部リンク 編集

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