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奥山和由

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テンプレート:Copyrights 奥山和由おくやま かずよし、男性、1954年12月4日-)は、日本の映画プロデューサー映画監督

愛媛県で生まれ東京都で育つ。都立戸山高校学習院大学経済学部卒業。松竹専務を経て、現在は(株)チームオクヤマ代表。2006年度から武蔵野美術大学造形学部映像学科の客員教授として「実践的プロデュース論」等を講義。

来歴編集

映画界における奥山の実績編集

奥山は山田洋次監督作に代表される「大船調」といわれる松竹伝統の映画製作の現場にありながら『海燕ジョーの奇跡』(監督:藤田敏八)、『いつかギラギラする日』(監督:深作欣二)、『陽炎』(監督:五社英雄)を初めとする他社出身の監督による青春アクション映画路線を打ち出し、『ハチ公物語』を初めとする他社との共同制作を推進。また「シネマジャパネスク」プロジェクトでブロックブッキングの興行形態にメスを入れ、『外科室』(監督:坂東玉三郎)では「上映時間50分・入場料1000円」の興行方式を仕掛け、映画界全体に新風を吹き込んだ。1980年代は『ハチ公物語』を初めとし大ヒット作を連発し業界内外に実績を認められ顔が利く存在となったが、1990年代後半に入ると異常に制作本数が増えヒット作以外に興行的不振が目立つようになり「シネマジャパネスク」は頓挫する形となった。カンヌ映画祭グランプリを受賞した『うなぎ』にしても作品の評価は高かったが興行的には大ヒットとまではいかず、新人監督として抜擢した北野武の『その男、凶暴につき』、竹中直人の『無能の人』においても同様の結果だった。解任騒動では奥山の独断的な人事や採算度外視の映画制作の手法に、その経営手腕を疑問視する声も少なくなかったといわれる。しかし、映画界自体が閉塞状況のなか、何らかの明るい未来へ向かう種をまくには、短期で見れば、それなりの経営面での犠牲も伴わざるをえなかったことも事実であろう。

奥山は常にアメリカ型プロデューサーと言われたが、その象徴的事件として『RAMPO』の監督解任劇があった。当初、NHKのディレクター・黛りんたろうに監督を依頼。しかし、完成した作品を観て、撮り直しを要求。それを黛が拒否したため、奥山自身の監督による別バージョンを製作し、2つのバージョンの同名タイトルの作品を同時公開するという暴挙に出た。当時は大変な話題となり、ヒットはしたものの、その強引さを非難する声もあがった。その一方で、今やヒットメーカーに成長した行定勲ら多くの新人監督にもチャンスを与え、監督デビューのきっかけを与えられた北野武はその後海外での評価が高まる等、奥山の多くの監督を育てた映画界への貢献に再評価の動きも見られる。

ロバート・デ・ニーロと奥山編集

1995年ロバート・デ・ニーロが、初監督作品『ブロンクス物語』のキャンペーンのため日本に訪れた折に、奥山はデ・ニーロと初めてミーティングを持った。目的は、デ・ニーロが今後映画制作をしていく上での日本におけるパートナー捜しだった。その頃、奥山も日本国内における映画制作の限界を感じ、また『RAMPO』での初監督を終えた時でもあったので、意気投合し、二人の関係はその後長く続いた。一年後、『RAMPO』の米ロサンゼルスにおける試写会に、デ・ニーロがアンディ・ガルシアなどとともに訪れたことは、日米でニュースにもなった。また、さらに半年後、デ・ニーロは再び日本を訪れ、奥山とともに共同企画開発、及び共同制作の記者会見を開いた。これは『226』以来始めた日本における初の映画ファンド・FFE第3号(50億)をバックボーンにしたものだった。第一作はデ・ニーロのプロダクション・トライベッカ側でスパイものの脚本を用意し、デ・ニーロ自身が監督をする予定だった。また第二作には『幸福の黄色いハンカチ』のアメリカを舞台に移したリメイクものが並んでいた。1997年末、第一作の脚本は第一稿完成に至ったが、1998年1月の解任事件により、FFE第3号は解体され、すべては中止となった。その折に、デ・ニーロは奥山へFAXを送り「ニューヨークに来ないか。一緒にやろう」と誘ったようだ(2000年11月11日朝日新聞(夕刊)より)。奥山がそれにどう応えたのか不明だが、二人の関係はその後も変わらず続いていた。六本木のレストラン「NOBU」はデ・ニーロが出資をしている店だが、そのオープンのときにも奥山はVIPゲストとして招かれ、デ・ニーロと再会している。また、2003年の作品『TAIZO』の「『TAIZO』を100万人に伝える会」においても、渡辺謙黒木瞳などと並んでデ・ニーロの名前が彼の署名とともにある。

北野武と奥山編集

北野武は監督デビュー以来、淀川長治黒澤明等にその作品を絶賛され海外での評価が高まる一方で、興行的には苦戦が続いた。北野と奥山は『ソナチネ』(1993年)の製作中に決裂したといわれており、「文藝春秋」誌に発表された奥山「たけし映画との訣別」のなかにも、たけしの監督作品にこだわり続けて制作することによって松竹社内で窮地に立たされていった経緯が書かれている。

北野の現在の映画製作ではオフィス北野森昌行がプロデューサーを務めるスタイルが定着しているため、かつての様な蜜月関係ではないのかもしれないが、『GONIN』(監督:石井隆)や、奥山がスーパーバイザーを務める『IZO』(監督:三池崇史)には俳優として参加しており、関係自体は続いているようだ。

映画投資ファンド編集

日本で初めてファンドという言葉を使用し、プロデューサー主導型の映画制作を可能にしたのが、奥山が発足したFFE(フューチャー・フィルム・エンタープライズ)である。日本初の映画ファンドでもある。

当時、他業種との共同制作は『ハチ公物語』(映画業界以外の業種との共同制作は日本初だった)を皮切りに常識となっていたが、政治思想を含む企画や、暴力的なもの、性描写が激しいものは、企業イメージを気にするため、共同制作の相手会社を捜すことは困難であった。それは映画という自由表現の魅力を追求する映画作りとは相反する方向となるため、プロデューサーの制作能力、すなわち、クオリティーの高いコンテンツを作る信用のもとに各企業から投資をしてもらい、一定額が集まったのちに企画をプロデューサー主導で決定する(組合員の2/3の賛成は必要)という形でFFEの第一号が誕生した。FFE第一号は、12億集めることができ、そのうちの8億をつぎ込み製作されたのが『226』である。その後、FFE第2号は30億を集め、黒澤明監督、リチャード・ギア主演『八月の狂詩曲(ラプソディー)』、そしてFFE第3号は50億を集め、デ・ニーロとの共同製作へと向かうが、解任事件により、解体されることとなった。

シネマ・ジャパネスク編集

シネマジャパネスクCINEMA JAPANESQUE)」とは奥山和由が中心となって進められたプロジェクトで、従来の全国画一的なブロックブッキングと異なる、邦画の新しい製作・興行体制の構築を目指すというものであった。1億円前後の低予算で作った映画を、3~4館ほどのシネマジャパネスク専用上映館を基本に、作品規模やテイストに応じて上映館の数を臨機応変に変化させるというものだった。また、CS放送チャンネル「衛星劇場」のオリジナルコンテンツ製作の側面も持たせるため、「衛星劇場」の名称は「シネマジャパネスク」に変更された。解任事件により1997年の10ヶ月間のみの短命プロジェクトとなってしまったが、奥山の前面指揮によって有望な若手監督による数多くの邦画が製作され、日本映画界のプロ達の投票によって選出される1997年第7回日本映画プロフェッショナル大賞では功績を評価され特別賞を受賞している。

プロジェクトの第1作となる『傷だらけの天使』(監督:阪本順治)は、2次利用等を考慮すると収支的にはそれなりに健闘したといえるレベルで、2作目として製作された『うなぎ』はカンヌでグランプリを受賞した話題性もあり、興行的に貢献した。それ以降の作品は、『東京夜曲』(監督:市川準)、『CURE』(監督:黒沢清)、『バウンス ko GALS』(監督:原田真人)、そして翌年のカンヌ国際映画祭正式出品となった『フラワーズ・オブ・シャンハイ』(監督:候孝賢)など、世界各国の映画祭の多くの賞を受賞したが、興行的には振るわなかった。しかし、行定勲がこのシネマジャパネスクにおいて『OPEN HOUSE』でデビューしたように、その後の活路を見出した監督も複数いたことを忘れてはならない。

1998年1月の奥山解任劇をもって「シネマジャパネスク」は終焉を迎えた。当時同プロジェクト内で撮影が進行・完成・上映間近になっていた映画は撮影中止や上映延期になり、CS放送の名前は再び「衛星劇場」に戻された。後に無事上映された映画からは「製作総指揮:奥山和由」のクレジットが外され、奥山色は一掃される運びとなる。

解任騒動編集

1998年1月19日松竹は取締役会を開き、同社の奥山融(おくやま とおる)社長と、その次男で映画プロデューサーの奥山和由専務を同日付けで解任した事を発表した。専務から昇格した大谷信義新社長は、取締役会後東京証券取引所で記者会見を行い、「奥山社長・専務の独断的な人事や投資によって映像部門は閉塞状況にあり、この事が業績不振の大きな要因である。」とした上で、奥山専務が進めていたプロジェクト「シネマジャパネスク」についても『うなぎ』以外ほとんどが失敗で、今後の見通しも採算のメドがたたない状態であると発表した。しかし、これは一方的な発表であり、同日、奥山和由が本社前でマスコミ各社に対しインタビューを受けたところ、松竹により打ち切られる、という事態も生じた。そしてクーデター側の各役員に2名ずつガードマンをつけるなど、異様な光景から、発表された表面上の事柄より、会社ぐるみによる粉飾決算など、根の深い何かがあると噂された。

実質的クーデターによる奥山解任のニュースは映画界の風雲児といわれていただけに当時の映画界に衝撃を与えた。その背景には斜陽化が進む映画業界で東宝は『もののけ姫』が空前の大ヒット、東映も『失楽園』等のヒット作を出す中で、大手三社と呼ばれる松竹だけが興行的に不振続きであった事や、創業者の大谷家を中心とする保守派と独断的に改革プロジェクトを進める奥山家との確執による内紛劇とする見方があった。しかし、内情をよく知る大方の見方は、歌舞伎を中心とする演劇部のトップ・永山武臣と、映像部門トップの奥山融との長年の確執が暴発したというものであった。遡ることさらに10数年、先代の社長・大谷隆三が、長男・信義との口論の末、自宅に放火、お手伝い一人が焼死という痛ましい事件があった。その際の社長交代劇で、永山の社長就任が、その後の二人の確執をより深いものとした。7年後永山は会長に、奥山が社長となるが、長年の派閥抗争の結果が、この解任劇という形になったという。

チームオクヤマ編集

松竹在籍時、自身の製作チームの通称として「チームオクヤマ」を名乗ったのが最初である。解任後、ナムコ傘下にあった日活の出資により製作会社「株式会社チームオクヤマ」を設立。第1回作品である『地雷を踏んだらサヨウナラ』(主演:浅野忠信)はロングラン記録を樹立。「玩具修理者」では、Q-FRONTスターバックスとのコラボレーションで「キュームービー」を企画する。それに続き「PUPS」「クラッシュ」「天国までの百マイル」などを製作。2008年中には「TOKYO JOE」「真幸くあらば」「最後の早慶戦」の3本を企画・製作と量産体制に入っている。

スクリーンインターナショナルの映画100周年記念号において日本人では唯一「世界の映画人実力者100人」の中に選ばれる。

主な作品編集

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関連項目編集


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