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宮﨑 駿(みやざき はやお、1941年1月5日 - )は、東京都文京区出身(墨田区出身という説もある)のアニメーション作家・映画監督漫画家学習院大学政治経済学部卒。血液型O型。アニメーション制作会社スタジオジブリに映画監督として所属し、2005年4月より取締役。また、自身が企画開発した三鷹の森ジブリ美術館の館主である。個人の事務所は二馬力で、主に宮﨑の著作権関連の管理を行っており、自身は代表取締役社長である。別名として秋津 三朗(あきつ さぶろう)、照樹 務(てれこむ)がある。映画などのクレジットタイトルでは宮崎 駿(みやざき はやお)と表記されることもある。

来歴 編集

初期 編集

宮﨑駿は、一族が経営する「宮﨑航空興学」の役員を務める一家の四人兄弟の二男に生まれ、太平洋戦争中であっても何不自由なく幼年時代を過ごした[1]

子供の頃から絵が上手く、手塚治虫杉浦茂の漫画、特に福島鉄次の絵物語『砂漠の魔王』のファンという漫画少年であったが、当時の進学校である東京都立豊多摩高等学校在学中の3年生の時に観た東映動画製作『白蛇伝』に感動し[2]アニメーションにも関心を持つようになる。学習院大学に進学したが、当時は大学に漫画サークルが無かったため、一番近そうな児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志して漫画を描き続けていたが、漫画かアニメーションかを悩んだ末に、アニメーションの世界へ進む事を決断する[3]。学習院大学を卒業し、アニメーターとして東映動画に入社した。

その後しばらくは東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け[4]、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。たちまち才能を現してメインスタッフとなると共に、結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任する。激しい組合活動を行いながら高畑勲森康二大塚康生らと共に『太陽の王子ホルスの大冒険』を作り上げ、その後も、さまざまなスタジオで優れた作品を作り続けた。1971年にはTVアニメ、ルパン三世 (TV第1シリーズ)を途中から演出の仕事を担当した。視聴率は芳しくなかったものの、宮崎はその後のルパンの基礎となる部分を作り上げた。(詳しくはルパンの項を参照)1974年にはTVアニメ、アルプスの少女ハイジで全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。主要スタッフとして一年半番組を引っ張った。この作品は最高平均視聴率が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。

未来少年コナンからナウシカまで編集

1978年、『未来少年コナン』(NHK)で初演出を務める。演出という肩書きではあったが、脚本から、絵コンテ、レイアウト、原画に至るまで、あらゆる作業を自身でも行うという超人的な仕事量をこなした。持ち前の高度な作家性を発揮して、原作「残された人びと」の悲壮なイメージを大幅に改変し、オリジナルといってもよい作品を作り上げた。後に宮崎アニメと呼ばれる作品群の原点とも言える。視聴率は低調だったが、この作品に衝撃を受け、後にアニメーターとなった者も少なくない。(鳥山明もコナンのような漫画を描きたいと語っている)

その後テレコム・アニメーションフィルムに移籍し、映画『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)で監督としてデビューした。同作は業界関係者やコアなアニメファンからは熱狂的に支持されるも、SFアニメ全盛の時代という事もあり、受け入れられにくい作品であったために、興行的には前作に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われないなど不遇の時を過ごすことになった。(しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。)この直後には、ルパン三世 (TV第2シリーズ)で最終回含め2話の制作に演出として携わっている。

アメリカに渡り、大塚康生や高畑勲らとともに日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に携わったが、企画への疑問から降板。この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』などの原型となる企画を構想しているが実現には至らなかった。

コナンの時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫が、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼にもちかける。これがのちに『風の谷のナウシカ』として開花する。企画は短編の筈だったが次第に拡大していった為、「原作付き企画」のハクをつけるべく『風の谷のナウシカ』の連載が始まる。尾形の尽力によって、当時映画事業に意欲的だった徳間書店徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し[5]、宮﨑の弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開された。映画『風の谷のナウシカ』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー・ブームの中にあったことと相俟って大ヒットとなり、作家としての宮﨑駿が広く認知されることとなった。

スタジオジブリ発足 編集

その後は徳間書店の出資を得て創設したスタジオジブリを舞台に、ほぼ2~3年おきに長編作品を製作している。1988年となりのトトロ』で世代やジャンルの境界を越えて一般人から広く支持を受けた。興行的に一定の成果を果たし、また国民的映像作家としての地位を確立したのは1989年魔女の宅急便』以降である。

1997年に公開された『もののけ姫』は、前年の徳間書店とディズニー社の業務提携によるジブリ作品の世界進出のニュースや、ジブリ史上最大の製作費、宮﨑の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を塗り替える大ヒット作となった。

2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入304億円と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。海外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメーション部門作品賞を受賞した。

2004年公開の『ハウルの動く城』は、宣伝を極めて抑えた公開であったにもかかわらず公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。 さらにヴェネチア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞するなど前作同様海外においても高く評価された。

2005年には、ヴェネチア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。

2006年には、アメリカ映画界最高の名誉とされるアカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮﨑はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。

2008年夏に、新作『崖の上のポニョ』の公開を予定し、現在は、その制作に取り組んでいる。

略歴 編集

作風 編集

子供の視点
一貫してファンタジーを作り続けている。これについて、「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」という趣旨の発言をしている[6]児童文学を愛読し、「アニメーションは基本的に子供の物」と公言し、その作品はほぼ一貫して子供の視点に立ち、悪役を大人にすることが多い。ただし、多くの作品は単純明快な勧善懲悪ものではなく、「悪役」もまた、重層的で複雑なキャラクターであることが多い。また、主人公が少女であることが多く、この理由は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るからと話す。
脚本なしでの制作
制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、脚本なしで絵コンテと同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「アニメーション界のレオナルド・ダ・ヴィンチ」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的制作管理能力を持つ宮﨑にして初めて可能な手法である。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」ということである。また、作品では空を舞うシーンが描かれることが多く、監督本人も意識している。
戦史・軍事マニア
戦史・軍事マニアとして知られ、第二次世界大戦から前の甲冑・鎧兜や兵器・AFVに造詣が深い。作中で登場する兵器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としては『月刊モデルグラフィックス』誌の『宮崎駿の雑想ノート』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載マンガがある(途中からタイトルは『妄想ノート』に変更され、現在は中断)。
声優の起用
紅の豚』以降は本業としての声優をほとんど起用せず[7]俳優女優を起用する事が多い。この点に関して一部の非声優の演技力等について否定的な意見がある。もっとも、近年の俳優、タレント起用に関しては、宮﨑以外のジブリ作品も同様であり、製作の鈴木敏夫の意向が強いとされている。ただ宮崎本人も、海外メディアとのインタビューの中で「我々が欲しいのはコケティッシュな声ではない」という旨を述べている。[1][2]
作品名の共通点
監督を担当した長編アニメーション映画の作品名には、どれも平仮名の「の」が含まれているのが特徴。
手塚治虫の評価
1988年手塚治虫が亡くなった時、漫画では自分も影響を受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーションに携わる人間の立場から、アニメーション作家としての手塚が日本のアニメーション史に果たした役割に痛烈な批判を加えた[8]。特にテレビアニメーション草創期に、手塚が市場優位性を確立させるため、鉄腕アトムなどの自社(虫プロダクション)制作番組を原価を割り込むほどの低価格で売り込んだことが、現在に至るまで日本のアニメーション製作費が極めて低く抑えられる要因となったとして舌鋒鋭く批判した。東映入社以来、映画アニメに携わっていた宮崎も低賃金、非人間的労働が当然のTVアニメの方に回され、そこから映画アニメ専門の世界に移るまでには長い期間を要した。また、「しずく」などの手塚アニメーション作品そのものに対しても辛口の批判をしたことがある。
日本のアニメーション界への危機感
2002年のベルリン映画祭金熊賞受賞の際の記者会見のインタビューで「今の日本のアニメーションはどん詰まり」などと語った。1985年2月号のアニメ雑誌「アニメージュ」の押井守河森正治との対談で「どんづまり」、1986年『天空の城ラピュタ』製作中に行ったアニメーション雑誌記者との会見[9]でも「崖っぷち」と表現するなど、以前から、短時間・低予算で量産される日本のアニメーションに対して、危機感を抱き続けており、スタジオジブリのスタジオ運営では月給制を取っていたこともあった。イギリスBBCなど日本国内外の様々なメディアで伝えられ、日本国内のみならず海外のアニメーションファンを含めて様々な反響があった[10]。なお、西島克彦が「アニメージュ」に載せた『プロジェクトA子』のコメントを取り上げて、「セーラー服機関銃撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです」と発言したのは、上記のうち1986年の会見でのことである。

政治的・思想的スタンス 編集

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反戦
一貫して反戦を、『風の谷のナウシカ』以降は環境保全を主題とした作品を作り続け、湾岸戦争に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明していた。
思想的転向
大学時代から社会主義思想に傾倒するようになり、東映動画入社後は激しい組合活動を行った。その後も長らく左翼的思想を保ちつづけていたが、1989年の天安門事件および東欧革命に大きな衝撃を受け、テンプレート:要出典範囲
思想的転向はないという見方
宮崎の社会主義思想は未来少年コナンにみられるように国家的組織による強権的な社会主義には批判的であり(作中に登場するインダストリアのイメージは大理石の男レーニン造船所を彷彿とさせる)、汗を流した労働を尊ぶという描写は初期の頃から現在まで一貫している。明るい陽気な共同体生活の描写はユートピア社会主義、強権的社会主義体制への批判は南欧発祥のユーロコミュニズムに近い。また近年アメリカでの公演に於いて毛沢東語録から言葉を引用したりもしている。
宮﨑の強権的「国家」に対する批判的姿勢は、作家の堀田善衛司馬遼太郎らとの交流から、人間の実相を「もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る」ように凝視する(宮﨑が"澄んだニヒリズム"と呼ぶところの)姿勢に転換していく。例えば漫画版『風の谷のナウシカ』のラストなどに、その人間観・世界観の変化の影響が見受けられる。
中尾佐助の思想
宮﨑に深く影響を与えた思想に、植物学者中尾佐助による「照葉樹林文化論」がある。ヒマラヤ山脈南麓から中国南部・日本本州南半分までを含む地域が、茶・酒・柑橘類などの特色をもつ共通の農耕文化圏に含まれるとするこの学説に、国家の枠を乗り越える視点を与えられ、「呪縛からの解放」感を味わったという。この影響は特に「もののけ姫」に強く表れており、その後も宮﨑はインタビュー・対談など事ある毎に中尾佐助を引き合いに出している。
政治的リアリスト
最近では、問題になった新しい歴史教科書をつくる会教科書を、「民族の『誇り』は、歴史を歪曲することで得られるものではない」と語ったことがある。一方で宮﨑は、司馬遼太郎や堀田善衛との鼎談で、日本の被害国にもナショナリズムの行き過ぎが見られると批判しており、コスモポリタン的な立場で各国の偏狭なナショナリズムを批判しているという主張もある。また、宮﨑は憲法改定に関して9条の支持を表明しているが、同時に、もし国民が9条改定を選択したならそれを尊重するといった趣旨の発言もしており、政治的リアリストとしての一面も持っている。
もののけ姫における歴史観
もののけ姫には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、たたら(鑪・鈩)製鉄技術者集団、馬子運送業者、らい病患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「天朝さまとはなんぞや。」とうそぶく女性を登場させるなど、網野善彦中世史観の影響が強く窺える。もっとも、いわゆる「網野史観」に全面的に依拠しているわけではなく、大規模な定着化した踏鞴場の描写など、技術者集団等の非定着性に注目した網野と対立する観点も散見される。

作品 編集

監督作品 編集

長編アニメーション映画 編集

短編アニメーション映画 編集

テレビアニメーション 編集

参加作品 編集

劇場用アニメーション映画 編集

テレビアニメーション 編集

その他の作品編集

漫画・絵物語など編集

  • 長靴をはいた猫
  • 砂漠の民(秋津三朗名義)
  • どうぶつ宝島
  • 妹へ(「宮﨑駿・大塚康生の世界」に収録)
  • 風の谷のナウシカ(全七巻)
  • 宮﨑駿イメージボード集
  • シュナの旅
  • 「風の谷のナウシカ」-宮﨑駿水彩画集
  • 宮﨑駿の雑想ノート
  • 飛行艇時代
  • 泥まみれの虎 宮﨑駿の妄想ノート
  • ハンスの帰還
  • (ロバート・ウェストール・作、宮﨑駿・編、金原瑞人・訳)『ブラッカムの爆撃機』 (児童書) 岩波書店 2006年10月 ISBN 4-00-024632-1
    • 「ブラッカムの爆撃機」「チャス・マッギルの幽霊」「ぼくを作ったもの」の3編を収録に加えて、宮﨑の描き下ろしで「ウェストール幻想 タインマスへの旅 前・後編」(コマ漫画、カラー24頁分)を併録。

デザインワーク編集

  • TVCM『日立マクセル・ニューゴールド・ビデオテープ』の「ワンダーシップ号
  • TVCM『日立パソコンH2』の「ポシェット竜
  • 実写映画『赤いカラスと幽霊船』の幽霊船
  • 日本テレビ放送網のシンボルキャラクター「なんだろう
  • 神奈川県かながわ・ゆめ国体」のマスコットキャラクター「かなべえ
  • 三鷹の森ジブリ美術館
  • 三鷹市のみたかモールのマスコットキャラクター「POKI
  • 江戸東京たてもの園のシンボルキャラクター「えどまる
  • 読売新聞のシンボルキャラクター「どれどれ
  • 中日ドラゴンズ公式ファンクラブのマスコットキャラクター「ガブリ
    • 1991年、映画宣伝用に自主的に作ったキャラクターを、球団創設70年にあたる2006年、ファンクラブ設立にあたり起用したもの。熱心な中日ファンとして知られるスタジオジブリ社長・鈴木敏夫の橋渡しによって採用されることとなった。
  • 日本テレビ社屋外壁の大からくり時計「日テレ大時計
  • 広島県福山市鞆町の「竜馬の宿

作詞編集

  • 『君をのせて』(『天空の城ラピュタ』挿入歌)
  • 『風のとおり道』(『となりのトトロ』挿入歌)
  • となりのトトロ』(『となりのトトロ』エンディング)
  • 『カントリー・ロード』(日本語訳詞の補作)(『耳をすませば』エンディング)
  • バロンのうた』(『耳をすませば』イメージアルバム より)
  • 『もののけ姫』(『もののけ姫』主題歌)
  • 『千と千尋の神隠し』イメージアルバム
    • 『神々さま』
    • 油屋
    • 『さみしい さみしい』
    • 『白い竜』
  • 『お母さんの写真』(CMソング)
  • 『崖の上のポニョ』イメージアルバム
    • 『崖の上のポニョ』(補作詞)(『崖の上のポニョ』主題歌)
    • 『いもうと達』
    • 『ポニョの子守唄』
    • 『ひまわりの家の輪舞曲』

著書(対談・インタビューなど)編集

  • 『何が映画か―「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』(黒澤明との対談集)
  • 『時代の風音』(司馬遼太郎堀田善衛との鼎談集)
  • 『トトロの住む家』(画文集)
  • 『出発点 1979~1996』(エッセイ・発言集)
  • 『虫眼とアニ眼』(養老孟司との対談集)
  • 『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』(渋谷陽一によるインタビュー集)
  • 『時には昔の話を』(加藤登紀子との共著、絵本、対談)
  • 『教育について』(共著、インタビュー集)

表紙イラストなど編集

絵コンテ集編集

劇場用アニメーション映画編集

  • パンダコパンダ/パンダコパンダ雨降りサーカスの巻 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
  • ルパン三世カリオストロの城 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
  • 風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集1(徳間書店)
  • 天空の城ラピュタ スタジオジブリ絵コンテ全集2(徳間書店)
  • となりのトトロ スタジオジブリ絵コンテ全集3 (徳間書店)
  • 魔女の宅急便 スタジオジブリ絵コンテ全集5(徳間書店)
  • 紅の豚 スタジオジブリ絵コンテ全集7(徳間書店)
  • 耳をすませば スタジオジブリ絵コンテ全集10(徳間書店)
  • もののけ姫 スタジオジブリ絵コンテ全集11(徳間書店)
  • 千と千尋の神隠し スタジオジブリ絵コンテ全集13(徳間書店)
  • ハウルの動く城 スタジオジブリ絵コンテ全集14(徳間書店)

テレビアニメーション編集

  • ルパン三世 死の翼アルバトロス/さらば愛しきルパンよ スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
  • 名探偵ホームズ 小さなマーサの大事件!?/ミセス・ハドソン人質事件/青い紅玉 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)
  • 名探偵ホームズ 海底の財宝/ドーバー海峡の大空中戦!/ねらわれた巨大貯金箱 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期 (徳間書店)

幻の作品一覧 編集

宮﨑駿が関与・企画・構想するも諸般の事情で幻に終わった、もしくは実現していない作品のリスト。なお、いくつかのタイトルは便宜上付けられた仮題である。

  • 長くつ下のピッピ(1971年ころ、アストリッド・リンドグレーン原作の児童文学作品、宮崎らAプロダクションのスタッフたちはスウェーデンまでロケハンに行ったが原作者から映画化の承諾を得られなかった。そのイメージは後に『パンダコパンダ』や『魔女の宅急便」で活かされている。)
  • ユキの太陽(ちばてつやの漫画。パイロットフィルムのみ製作された。)
  • もののけ姫(1980年ころ、『美女と野獣』&戦国時代をモチーフとしているが、1997年に映画化された『もののけ姫』とは題名が共通なだけで、物語もデザインも全く異なる作品である。イメージボードは1993年にスタジオジブリ(後に徳間書店)から大型絵本として出版されている。)
  • ロルフ(1981年ころ、リチャード・コーベン原作のアングラコミック。イメージボードが作成されている。舞台設定やデザインは『風の谷のナウシカ』の原型とも言える作品。)
  • 戦国魔城(1981年ころ。日本の戦国時代を舞台にしたSFオリジナル作品。イメージボードが作成されている。ここでナウシカやラピュタへ繋がる設定が多く生み出された。)
  • NEMO(1981-1982年、ウィンザー・マッケイ原作の『リトル・ニモ』の企画にテレコム・アニメーションフィルムのスタッフとして当初からかかわって大量のイメージボードを作成していたが、制作発表前に降板して退社。フリーになっている。映画自体は1989年に公開されている。)
  • 風の谷の一日(1983年ころ、ナウシカの幼年時代を、風の谷の日常を通して描くというもの。徳間書店の「アニメグランプリ」イベント用に宮崎が提案したが、最終的に映画化されることになる)
  • アンカー(1980年代半ば、夢枕獏との対談で宮崎が提案した。『ラピュタ』完成後、原作夢枕、脚本宮崎、監督押井守、プロデューサー高畑勲で検討されるが、企画段階で中止される。宮崎の構想は、お姫様のような不思議な女の子が何者かに追われて、偶然に出会った男の子がその子を逃がすためにある場所まで送り届けると、また違う人間が別の場所まで送り届けるという恋愛要素を含んだ冒険もの。舞台は当時の東京。しかし、宮崎と押井の意見が対立し、全く話にならず企画は消滅した。「押井守の世界 2008年2月16日」より。)
  • 突撃!アイアンポーク(1985年ころ、「宮崎駿の雑想ノート」から派生したOVA作品の企画で、これも監督に押井守が予定されていた。)
  • 大東京物語ふくやまけいこの漫画。後に現代には合わないと判断している。)
  • 墨攻(古代中国が舞台の酒見賢一原作の歴史小説。構想では、包囲された都市をある指導者が守っていくというもの。押井守の監督で検討されたが宮崎と話が食い違い、消滅する。)
  • 東京汚穢合戦(宮﨑が1997年、NHK番組『トップランナー』に出演した時に語ったもの。)
  • ゴチャガチャ通りのリナ(柏葉幸子原作の児童文学『霧のむこうのふしぎな町』)
  • 煙突描きのリン(震災後の東京を舞台に、大阪からやってきたリンが風呂屋に住み込み、煙突に絵を描くという話。三鷹の森ジブリ美術館でそのプロットが見られる。この物語のために作られた木村弓の『いつも何度でも』が、後に『千と千尋の神隠し』の主題歌となった。)
  • 毛虫のボロ(長年宮崎が温めてきた「虫の視点から世界はどう見えるか」という企画。「もののけ姫」の前にボツになったが、後に『水グモもんもん』として実現した。)
  • 旅のラゴス(筒井康隆原作のSFファンタジー小説)
  • ジョナサンと宇宙クジラ(ロバート・F・ヤングのSF小説)

脚注編集

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  1. 会社が中島飛行機の下請けとして軍用機の部品を生産していたことが、軍事用兵器に対する相矛盾する感情を生むことになった。宮﨑が回想した戦争体験としては、疎開先の宇都宮空襲を受け、親類の運転するトラックで宮﨑一家(駿は4歳)が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。しかし、小さいトラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走りだした。その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている。(『時代を翔るアニメ監督 宮崎駿』北海道新聞夕刊、2001年)
  2. 「『白蛇伝』との出会いは強烈な衝撃を残していった。 マンガ家を志望して、流行の不条理劇でも描こうとしていた自分の愚かさを思い知らされたのだった。口をつく不信の言葉と裏腹に、本心は、あの三文メロドラマの安っぽくても、ひたむきで純粋な世界に憧れている自分に気づかされてしまった。世界を肯定したくてたまらない自分がいるのをもう否定できなくなっていた。  それ以来、ぼくは真面目に何をつくるべきか考えるようになったらしい。少なくとも本心で作らなければダメだと、思うようになっていた。」 (『日本映画の現在』岩波書店、1988年)
  3. 在学中に幾つかの雑誌編集部に革命をテーマにした自作漫画の持ち込みをしたが、時代物は扱っていないと門前払いされ、採用され無かったので将来に不安を感じた事もあるが、 「劇画の世界と、アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんです」 (『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)
  4. 「これほどのことがアニメーションでできるなら、いつか自分もやってみたい、アニメーターになっていてよかったと思って、はっきりと腰が座った」 (『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)
  5. 尾形英夫「あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録」(オークラ出版、2004年)
  6. 「僕らは抜き差しならない現実社会に、抜き差しならない自分をかかえて生きているでしょう。だけどね、いろんなコンプレックスとかガンジガラメの関係から抜け出て、もっと自由な、おおらかな世界にあればね、自分は強くも雄々しくもなれる。もっと美しく、やさしくなれるのに、という思いを持ってるんじゃないか。少年も老人も、女も男も…」(富沢洋子編「また、会えたね!」アニメージュ文庫 徳間書店、1983年)
  7. 『紅の豚』以前の『天空の城ラピュタ』でも主人公の少年パズー役に実際の少年を起用しようとしたといい、非声優の採用は早くから検討されていた。『天空の城ラピュタ』でプロの成人の女性声優を起用した(最終的にパズーを演じたのは田中真弓)のは演技力の問題であったという(『アニメージュ』徳間書店、1986年8月号)。なお主役級以外に関しては、それ以前の作品から俳優や文化人などの出演はある。
  8. コミックボックス」ふゅーじょん・ぷろだくと、1989年5月号。
  9. コミックボックス」に全録、「月刊OUT」みのり書房、1986年8月号に抄録で掲載。
  10. 「アニメージュ」2002年5月号において、宮﨑の発言に対する5人のアニメ業界人のコメントを掲載。久美薫『宮﨑駿の仕事 1979~2004』(鳥影社、2004年)では宮﨑発言が「反響が大きかった」とし、久美自身も8ページをかけて宮﨑発言を論じる。

関連項目編集

参考文献編集

関連書籍編集

関連DVD編集

  • 『「もののけ姫」はこうして生まれた。』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2001年)
  • 柳川堀割物語』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)
  • ラセターさんありがとう』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)
  • 『世界・わが心の旅 (2巻セット)』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)
  • 『宮﨑駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)
  • 『宮﨑駿とジブリ美術館』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2005年)

外部リンク 編集

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