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悪 麗之助あく れいのすけ1902年 - 1931年10月26日)は、日本の脚本家映画監督である。29歳で夭折した、昭和初年の無声映画界に存在したアナキスト映画作家である。陸 大蔵りく たいぞう)、阿久 礼之助あく れいのすけ)、竜造寺 淳平りゅうぞうじ じゅんぺい)とも名乗る。

来歴・人物[]

1902年に生まれる。経歴一切不詳。

マキノ映画製作所等持院撮影所の牧野省三に抜擢され、1924年(大正13年)、金森万象監督、横山運平主演の『超現代人』で脚本家として弱冠22歳にしてデビュー、同作は同年4月11日に公開された。東亜キネマとの合併後の「等持院撮影所」でひきつづき、仁科熊彦後藤秋声の作品の脚本を書いて、帝国キネマ(帝キネ)の小阪撮影所に転じた。マキノでの最後の『戦国時代』三部作は「陸大蔵」名義となった。

1925年(大正14年)、添田唖蝉坊系アナキストで「浅草オペラ」出身の古海卓二監督と意気投合、3本の脚本を提供。同年6月25日に公開された尾上紋十郎主演の『崇禅寺馬場 前篇』で映画監督としてデビューする。ただし「竜造寺淳平[1]」(順平[2])名義であり、後篇は山下秀一監督、脚本は新織司であった。翌月の7月13日に公開されたおなじく紋十郎主演の『長脇差』は「悪麗之助」名義でクレジットされた。当時の帝キネ小阪の経営上の内紛で撮影所が閉鎖されると、ふたたび牧野のいる「等持院撮影所」に戻り、監督作『追はれ行く人』を発表する。市川小太夫の主演デビュー作であった。まもなく牧野が等持院を離れ再度独立するが、悪は等持院に残った。

1926年(大正15年)、阪東妻三郎プロダクションに招かれ、阪東妻三郎主演、伊藤大輔脚本の『無明地獄』を「陸大蔵」名義で撮る。つづいて寿々喜多呂九平原作・脚本の『蜘蛛』を「悪麗之助」名義で撮る。山上伊太郎とならんで「鬼才」と称されるようになる[2]1927年(昭和2年)の立花良介と阪妻による「阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画」で、衣笠貞之助の『狂つた一頁』の脚本に参加した沢田暁紅の原作・脚本による『狂乱星月夜』、寿々喜多原作・脚本の『閃影 前篇』を撮って、同社を飛び出す。大阪港パーク撮影所で『彼は復讐を忘れたか』を撮って、1928年(昭和3年)初頭に東京へ飛び、河合映画町屋撮影所で『ふくろう組』を撮る。

同年後半、「連合映画芸術家協会」を解散した直木三十五月形龍之介が始めたツキガタ・プロタクション[3]で、直木の推薦によりツキガタ・プロタクション同人となり[2]、月形陽候(月形龍之介)主演の『敵討破れ傘』、『救ひを求むるもの』等の異色時代劇を撮った。翌1929年(昭和4年)に同プロダクションが解散すると、市川右太衛門プロダクションで『野良犬』、『冷眼』を市川右太衛門主演で撮った。

1930年(昭和5年)、月形が入社した松竹下加茂撮影所に移籍、『弥藤太昇天』を皮切りに月形龍之介主演作を立て続けに監督するが、その間の時期に愛児を交通事故で失う[2]1931年(昭和6年)3月6日公開の月形の主演作『紅蝙蝠 第一篇』を監督したのを最後に、肺結核が悪化し、再び脚本に専念する。井上金太郎二川文太郎ら、かつて「マキノ映画製作所」に集った同世代の監督たちが下加茂におり、彼らの監督作のための脚本をつぎつぎに書いた。

同年10月26日午前11時、肺結核により京都で死去。29歳没。駆けつけた友人たちを見回した直後に永眠した悪に、臨終に居合わせた月形龍之介は「悪のやつ、最後までパンをして逝きよった」と語った[2]

フィルモグラフィ[]

脚本家時代[]

1924年
  • 超現代人 原作・脚本 監督金森万象 ※マキノ映画製作所等持院撮影所
  • 或る兄弟と城主 原作・脚本 監督仁科熊彦 ※東亜キネマ等持院撮影所
  • 茶人木阿弥 原作 監督後藤秋声、脚本村瀬仁三郎 ※東亜キネマ等持院撮影所
  • 戦国時代 第一篇 原作・脚本 監督後藤秋声 ※「陸大蔵」名義、東亜キネマ等持院撮影所
  • 戦国時代 第二篇 原作・脚本 監督沼田紅緑 ※「陸大蔵」名義、東亜キネマ等持院撮影所
1925年
  • 戦国時代 第三篇 原作・脚本 監督沼田紅緑 ※「陸大蔵」名義、東亜キネマ等持院撮影所
  • 行路 原作・脚本 監督古海卓二、撮影杉山公平、主演岡田時彦 ※帝国キネマ
  • 近藤勇 脚本 監督森本登良夫、主演市川幡谷 ※帝国キネマ
  • 三人の道化者 原作・脚本 監督古海卓二、撮影杉山公平、主演関操伊志井寛 ※帝国キネマ
  • 有刃無刃 原作・脚本 監督宮沢進郎、撮影谷口禎、主演片岡童十郎 ※帝国キネマ
  • 関東侠客伝 剣豪無双の巻 監督古海卓二、撮影吉田俊作、主演尾上紋十郎 ※帝国キネマ小阪撮影所

監督時代[]

1925年
  • 崇禅寺馬場 前篇 脚本・監督、主演尾上紋十郎 ※帝国キネマ小阪撮影所、後篇の監督は山下秀一、脚本は新織司
  • 長脇差 原作・脚本・監督、主演尾上紋十郎 ※帝国キネマ小阪撮影所
  • 追はれ行く人 ※東亜キネマ等持院撮影所
  • 剣戟 ※東亜キネマ等持院撮影所
  • 恋を賭けた武士 ※東亜キネマ等持院撮影所
  • 徳十と仙吉 ※東亜キネマ等持院撮影所
1926年
  • 鋳掛松捕縛 ※東亜キネマ等持院撮影所
  • 無明地獄 原作・監督 脚本伊藤大輔、主演阪東妻三郎 ※「陸大蔵」名義、阪東妻三郎プロダクション太奏撮影所
  • 蜘蛛 原作・脚本寿々喜多呂九平、主演阪東妻三郎 ※阪東妻三郎プロダクション太奏撮影所
1927年
  • 狂乱星月夜 原作・脚本沢田暁紅 ※阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画
  • 閃影 前篇 原作・脚本寿々喜多呂九平 ※阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画
  • 彼は復讐を忘れたか 原作・脚本・監督 ※大阪港パーク撮影所
1928年
  • ふくろう組 原作・脚本・監督 ※河合映画町屋撮影所
  • 敵討破れ傘 主演月形陽候(月形龍之介) ※ツキガタ・プロタクション
  • 救ひを求むるもの 主演月形陽候 ※ツキガタ・プロタクション
1929年
  • やくざ者 主演月形陽候 ※ツキガタ・プロタクション
  • 野良犬 原作・脚本・監督 主演市川右太衛門 ※市川右太衛門プロダクション、配給松竹キネマ
  • 海賊船 原作・脚本・監督 主演月形陽候 ※ツキガタ・プロタクション
  • 冷眼 脚本・監督 主演市川右太衛門 ※市川右太衛門プロダクション、配給松竹キネマ
1930年 松竹下加茂撮影所
  • 弥藤太昇天 原作・脚本・監督 主演月形龍之介
  • 馬の脚 主演月形龍之介
  • 荒木又右衛門 脚本・監督 主演月形龍之介
  • 弥次喜多はしご道中 脚本・監督 主演月形龍之介
  • 疵高倉 脚本・監督 主演月形龍之介 ※松竹太秦撮影所
1931年 松竹下加茂撮影所
  • 紅蝙蝠 第一篇 脚本・監督 原作長谷川伸、撮影円谷英二、主演月形龍之介 ※監督としての遺作

末期の脚本家時代[]

1931年 松竹下加茂撮影所
  • 血煙一番槍 原作・脚本(「陸大蔵」名義) 監督神田金太郎 ※右太衛門プロダクション
  • 彼は復讐を忘れたか 原作のみ 監督星哲六、脚本木村富士夫
  • 紅蝙蝠 第二篇 勇躍血戦の巻 脚本 監督広瀬五郎、原作長谷川伸、主演月形龍之介
  • 河童又介 脚本 監督広瀬五郎、原作長谷川伸
  • 紅蝙蝠 第三篇 血涙戸並長八郎の巻 脚本 監督広瀬五郎、原作長谷川伸、主演月形龍之介
  • 馬頭の銭 化粧菩薩の巻 脚本 監督井上金太郎、原作長谷川伸
  • かごや大納言 脚本 監督二川文太郎、原作大森痴雪
  • 馬頭の銭 黄金乱舞の巻 脚本 監督井上金太郎、原作長谷川伸
  • 忠弥行状記 脚本 監督井上金太郎、原作金子洋文 ※没後公開
  • 唐人お吉 脚本 監督衣笠貞之助、原作村松春水 ※没後公開

関連事項[]

  • マキノ映画製作所 - 東亜キネマ等持院撮影所 (牧野省三
  • 帝国キネマ小阪撮影所 - 東邦映画製作所山川吉太郎立石駒吉
  • 阪東妻三郎プロダクション - 阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画阪東妻三郎立花良介
  • 市川右太衛門プロダクション市川右太衛門
  • ツキガタ・プロタクション月形龍之介
  • 松竹下加茂撮影所

[]

  1. 日本映画データベースの「崇禅寺馬場 前篇」の表記を参照。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)の「悪麗之助」の項(p.11)を参照。同項執筆は竹中労
  3. 直木の甥・植村鞆音『直木三十五伝』(文藝春秋、2005年 ISBN 4163671501)の記述を参照。

外部リンク[]

  • 悪麗之助 - 日本映画データベース
  • テンプレート:Imdb name


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