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沼津兵学校ぬまづへいがっこう)とは、

  1. 明治時代初期、沼津城内にあった兵学校のこと。この項で解説する。
  2. 1.を題材とした映画。東宝が制作し、1939年昭和14年)2月21日公開。

沼津兵学校1868年明治元年)、フランスに倣った軍隊を目指すという目標を掲げ、駿河国沼津の沼津城内の建物を使って徳川家によって開校された兵学校のこと。受講資格は、徳川家の家臣である14歳から18歳ということが原則ではあった。しかし、他藩からの留学生もいたといわれる。初代学長は西周であり、教師は優秀な幕臣の中から選ばれた。

1870年(明治3年)に兵部省の管轄となり、1872年(明治5年)には政府の陸軍兵学校との統合のため東京へ移転したが、途中で作られた付属書学校は、現在の沼津市立第一小学校の前身である。

沼津兵学校は日本の近代教育の発祥であるとも言われる。

詳細編集

慶応4年5月28日徳川家達の800万石を召しあげられ、駿遠参70万石に移封され、沼津に配されていた。その頃、幕臣の江原素六阿部邦之助らが図って、明治元年11月、沼津城内で兵学校ならびに付属小学校を興し、オランダに留学。慶応3年に帰国した西周を頭取として、12月に教授を開始した。

教授科目は、資業生においては書史講論といい、「博物新論」「地理全誌」「瀛環志略」「孫子」を論講した。英語フランス語のうち一科による会話、文典をはじめ、万国地理、究理概略(物理と化学)、天文、万国史、経済説大略を講じた。数学科では代数、幾何、三角、実地測量にプランセットセキスタントなどの練習を課した。

進んで歩兵学校、砲兵学校、築造将校などの諸科を分かち、それぞれ近代科学的内容の科目をたてて教育訓練を行った。 予備校として設立された小学校の科目は、素読、学書、算術、地理、体操、講釈、聴聞の6科を本科とし、剣術、水練を随意科として課した。

兵学校資業生210余人のうち、この小学校出身者は150余人であった。

語学関係には渡部温乙骨太郎乙などの著名な学者を教授とし、また未だ普及の遅れていた近代の数学を積極的に教えたところから、「数学の沼津」と言われ、軍隊の中でも工兵、砲兵などの理系の知識を必要とする分野に、多く人材を提供した。

明治4年9月30日に、兵部省の達しによってその直属となる。12月16日の布達により、「沼津出張兵学寮」と改称された。教授方はそれぞれ陸軍小丞中佐少佐以下に任じられ、官名を帯びた。

明治5年東京に移転されて、沼津兵学校は中央の士官養成機関に移行した。

わずか4年もの短期間に出身したものは、陸海軍を通じて井口省吾加藤定吉男矢吹秀一郎早川省義赤松則良男黒田久孝男古川宣誉西紳六郎男村田惇向山慎吉山口勝、そのほか多数におよび、軍人以外では西周田口卯吉島田三郎真野文二などがいる。

関連項目 編集

映画 編集

1939年2月21日公開。配給は東宝。『青い山脈』『また逢う日まで』『キクとイサム』などを手がけた今井正の第1回監督作品。旧幕臣と長州藩出身の学生の交流を描く。

キャスト 編集

スタッフ 編集


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